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ツアー名 | 歴史パノラマ探訪〜ペリリュー戦跡編 |
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ツアー日程 | 2018年3月21日(水)〜3月25日(日) 5日間 |
昭和19年3月28日 出陣に当たり第14師団長の井上貞衛中将の訓示。
御国(みくに)の危急に奮起し撃ちてし止まむ勝たずば帰らじと互いに誓う諸子が純忠の赤誠は、先ずここに能(よく)至難なりし出陣の諸準備を完成せり。
烈々たる闘魂必勝不滅の確信は歴然として普(あまね)く将兵諸子の眉宇(びう)に漲(みなぎ)る。決死陣頭に指揮し万難堅塁を突破するの決意は厳乎(げんこ)として各級幹部の心中に凝(こ)るを見る。安んじて続け。戦局を打開し敵を撃滅おう殺するの方寸は既に予の胸中に定まりたり。今や暁の天を衝(つ)き御国を後に愈愈(いよいよ)決戦場裡に向い進発せんとす。先ず遥か東方皇居を拝み、全員決死誓って敵を殲滅し、速かに叡慮を安んじ奉り、以て父祖相受く鴻大無辺の皇恩に報(むく)い奉らんことを期す。
10:00 JL8851便成田空港出発。<搭乗率100%>
14:45 コロールに着陸。
15:30 PALASIA HOTEL PALAU着。
16:00 ETPISON 博物館
- ネギッケル・エピソン(ETPISON)氏
元大統領・パラオパシフィックリゾートホテル建設・当博物館創設者
第14師団長・井上貞衛中将の決戦訓練命令 (昭和19年4月24日)
決戦は眼前にせまりつつあり。この決戦に於いて吾人が決勝を獲得し戦勢を挽回、戦局の大転換を実現しなければ、如何にして君恩に報い皇国の危難を救う事が出来ようか。快勝を獲得する要道は将兵一心、挙軍一体、以て千年練武の総成果をこの決戦に結集発揮するとともに、最近の戦訓、なかんずくサイパン戦に於ける尊き我経験をあますところなく、この決戦の一夜に活用するにある。
熾(し)烈なる敵の艦砲、空爆下に於いて、敵の上陸前、過早に我戦力を損耗させない事、及び敵の上陸当夜その配備薄弱に乗じ、一挙に海岸堡を覆滅し、翌払暁までに上陸した敵をことごとく鏖(おう)殺し尽くさんがため、あらゆる戦技の完全精到を期し、奇襲強襲に徹底し、かつ全員強烈なる闘魂にもとづく最高度の精神威力を発揮するにある。勝敗の岐路は眼前に横たわる。全集団の運命はもとより、御国の盛衰、民族の死活を決するは、明らかにこの一戦にあり。
中川大佐の訓練命令 (昭和19年4月24日)
- ※「米軍は長槍(ちょうそう)、われらは短剣なり」なにをもって必殺の戦法となすべきか。断もって敵の手元に突き入り「皮肉を斬らせて敵の骨髄を打ち砕くこと」を全将兵は部隊の信条とせよ。
- ※ペリリュー島地区の戦いに於いては、快勝か全滅か、いずれかの道しかない。
- ※われらの玉砕は易く、要域確保の責こそ重大である。
08:10 ホテル出発。
08:20 事務所に全員の旅券を預け出発準備。(船酔止)
08:45 ペリリュー島へ向け波止場出発。
09:00 海中の零戦
09:45 ペリリュー島(北波止場)着(飯田大隊逆上陸地)
ペリリュー島
- コロール島から南西60km、アンガウル島から北東10km。面積13km2、東西3km・南北9kmの南北に細長い島は、周囲を珊瑚礁で囲まれ、中央部に海抜80m〜90mの切り立つ岩山が幾つかある以外殆ど平坦な珊瑚の島
- 第1次世界大戦の結果、大正8年(1919)に南洋諸島(パラオ諸島・マリアナ諸島)が日本の委任統治領になったが、日米関係が悪化する中、我国は対米戦争に備え、南洋諸島の防衛強化を図り飛行場・港湾施設・沿岸砲台等の建設を行なった。
パラオ諸島南部の平坦なペリリュー島に昭和15年1200mの滑走路2本を持つ南洋諸島最大規模の海軍飛行場が完成。 - パラオ人の多くは親日的で国旗は日の丸(日章旗)に似たデザイン(月章旗)、日本風の名前を持つ住民が多く戦後反日にならなかったのはペリリュー島の戦闘前に島民をパラオ本島に避難させ、守備隊と邦人だけが残り玉砕した為である。
ペリリュー島に於ける彼我の戦力
<我軍>
総員:10,500名 |
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装備 | 小銃5006挺、96式軽機関銃200挺、92式重機関銃58挺、94式37粍速射砲・105粍山砲他200門、95式軽戦車16輌 |
<米軍>
総員:48,700名 |
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装備 | 小銃、自動小銃41346挺、機関銃1434挺、ピストル3399挺、迫撃砲、曲射砲729門、戦車117輌、バズーカ砲180基 |
<戦歴>
- 昭和19年(1944)4月24日、3月30日及び31日の米機動部隊の空襲により大損害を被ったパラオ諸島のコロールに陸軍第14師団主力を乗せた「東松五号船団」が到着、隷下の歩兵第2聯隊(聯隊長:中川州男大佐)は直ちにペリリュー島に進出、パラオ集団ペリリュー地区隊主力としてペリリュー島防衛にあたった。
- 南洋諸島最大規模の飛行場があり米軍侵攻が最も予想されるペリリュー島に進駐した歩兵第2聯隊は米軍上陸が予想される海岸に堅固な水際陣地を構築すると共に、内陸の岩山地帯にある自然洞窟を利用した地下壕を多数掘削し、複数の火点を連結した複郭陣を築城した。我将兵は珊瑚礁で出来た硬い地盤を掘削し米軍の砲爆撃にも十分耐える強度を持ち、長期の持久戦が可能な陣地を構築した。
- 昭和19年9月12日 米軍の艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火で周囲の密林は焼き払われた。昭和19年9月15日「2、3日で陥落させられる」と豪語したウイリアム・リュパータス少将指揮の米第1海兵師団・21000名が上陸開始、中川大佐以下10,000名の我守備隊は猛烈な反撃を行い、特に水際陣地の我反撃は凄まじく上陸米軍は大損害を出し何度も撃退され、上陸6日目には第1海兵師団の全連隊が壊滅状態に陥り海岸の砂は彼我将兵の血で紅く染まった。
- 圧倒的な火力・兵力の米軍は当初ペリリュー島の攻略は3〜4日で終了と考え、橋頭堡を確保内陸に侵攻したが、複郭陣地に拠って持久戦を展開する我守備隊に米軍の侵攻は阻止された。我守備隊の勇戦敢闘により、第1海師団は全滅判定(損失60%超)を受け撤退、10月30日には米陸軍第81歩兵師団と交代、4万名近い米軍はこれ以降約1ヶ月の長きに及ぶ戦闘を強いられた。
- 孤立無援の我守備隊将兵は次々と斃れ、昭和19年11月24日16時、パラオ集団司令部は、ペリリュー地区隊司令部の中川大佐からパラオ集団司令部宛に、予め決めてあった暗号電文「サクラ・サクラ」(守備隊将兵からの最期の別れ)を受電。
- 地区隊長中川州男大佐は拳銃自決、第14師団派遣参謀・村井権治郎少将と歩兵第15聯隊・第2大隊長・飯田義栄中佐は割腹自決。
翌朝、根本甲太郎大尉以下55名は万歳突撃を敢行し、米軍上陸から2ヶ月半にわたる我軍の組織的抵抗はここに終りを告げた。 - 2ヶ月半の間、昭和天皇陛下は中川隊の奮闘対し嘉賞11度、感状3度をお与えになり、戦死ご中川大佐は2階級特進し陸軍中将となった。
戦況の推移に沿って見学
10:40 戦没者慰霊碑(みたま) ご英霊に対し訪島ご挨拶と慰霊、国歌・海ゆかばを斉唱後、黙祷。
- 兄上の墓前の能勢さた様
11:00 水際付近 ホワイト・ビーチとイシマツ陣地
- ホワイト・ビーチ
- イシマツ陣地(海軍砲塔)
- 2014年9月撮影のイシマツ陣地
11:20 オレンジビーチ(米軍上陸海岸) 米81歩兵師団モニュメント
- 上陸海岸
- 今上陛下・皇后陛下お立ち寄り場所
- モニュメント
- モニュメント
- 慰霊される今上陛下・皇后陛下
9月15日 米軍上陸作戦のフォーメーション
- 我軍水際陣地図
- 米軍上陸図
- 米軍上陸写真
- 米軍は強襲上陸に備え、ペリリュー島西正面に幅2200mの上陸海岸を設定。
- 海岸を左(北)から右に5色ホワイト1海岸、ホワイト2海岸、オレンジ1海岸、オレンジ2海岸、オレンジ3海岸に区分して、3個海兵連隊(第1、第5、第7)の突撃大隊5個が並列で上陸。
- 攻撃開始線は、海岸正面沖3600m。
ここから突撃第1波のアムタンク水陸両用戦車と海兵隊を載せたLVT装軌上陸車296輌の突撃波が一斉に海岸に突進。LVTの水上スピードでは攻撃開始線から海岸まで30分。 - LVTは20隻のLST(戦車揚陸艦)に積まれ、上陸海岸のLST区域Bに集結。
LSTは10隻が2列で整列、4隻1組のLST隊がLTVによる1個海兵大隊の強襲上陸を実施した。 - 第1海兵連隊(ルイス・B・プラート大佐)の上陸部隊は、第3大隊と第2大隊でホワイト1とホワイト2海岸に並んで突撃、第1大隊は予備。
- 第5海兵連隊(ハロルド・D・ハリス大佐)の上陸部隊は第1大隊と第3大隊でオレンジ1とオレンジ2海岸に並んで突撃、第2大隊は予備。
- 第7海兵連隊(ハーマン・H・ハンネケン大佐)の上陸部隊は第3大隊と第1大隊でオレンジ3に縦隊により突撃、第2大隊は師団予備。
- 上陸プランでは最初に浜に突撃する5個大隊(兵力4500)の上陸完了は上陸開始から20分とされ、上陸開始から85分で8個歩兵大隊(兵力8000)が上陸し、その後から師団の残余14500の兵員と装備・補給物資約34500トンを揚陸する予定であった。
- 突撃波の前方は18隻のLCI(G)砲艇(ロケット弾)が横一列に配置、左翼は尾根の裏側に隠れた守備隊を曲射弾道の107o迫撃砲装備の4隻の砲艇を配置。
- 突撃第1波はアムタンク水陸両用戦車群で、アムタンクは臨時編成された第3水陸両用装甲トラッツクター大隊の73輌。アムタンク大隊は5本ある突撃レーンそれぞれに3輌15輌のアムタンク水陸両用戦車を配置した。任務は後続するLVT装機上陸車の達着に備え、あらかじめ海岸地帯を火力制圧しておく事であった。
左翼からB中隊、A中隊、C中隊、D中隊がほぼ横一線に並ぶ。
特に突撃波両翼端のアムタンク小隊(左翼:B中隊第3小隊の5輌、右翼:D中隊第3小隊の7輌)は島内には突進せず両翼に止まり海岸地帯に対する持続的な掩護砲撃が任務で、大口径75o砲を備えた新型LVT(A)4であった。突撃第1波 米軍アムタンク大隊(我陣地・装備)の西浜海岸区分 北から
- ホワイト1海岸(イシマツ陣地 野砲1門、速射砲2門、高射機関砲4門)
B中隊・第3小隊、B中隊・第1小隊、B中隊本部 - ホワイト2海岸(イワマツ陣地 速射砲2門)
B中隊・第2小隊、A中隊・第1小隊、A中隊本部 - オレンジ1海岸(クロマツ陣地 野砲1門)
大隊作戦幕僚、A中隊・第3小隊、A中隊・第2小隊 C中隊本部 - オレンジ2海岸(アヤメ陣地 速射砲1門)
C中隊・第2小隊、C中隊・第3小隊、大隊長、 - オレンジ3海岸(アヤメ陣地 レンゲ陣地・速射砲1門 無名島陣地・野砲1門)
C中隊・第1小隊、D中隊・第2小隊、D中隊・第1小隊、D中隊第3小隊
@我軍火器数及び弾丸発射力(670発/分)
75粍野砲(30発/分)×3門、速射砲(120発/分)×6門、20粍機関砲(520発/分)×6門
@アムタンク数及び弾丸発射力(1215発/分)
LVT(A)4・75mm粍砲アムタンク(750発/分)×49輌 LVT(A)1・37o砲アムタンク(480発/分) - ホワイト1海岸(イシマツ陣地 野砲1門、速射砲2門、高射機関砲4門)
- 突撃第2波は海兵隊を満載したLVT2/4装軌上陸車からなり、アムタンクの発進から1分後に開始線を出発、第6波までがLVTの群れで5分毎に発進、その数221輌。
- 突撃第4波には2の隻LSD(ドック型揚陸艦)から出た6隻のLCT(戦車揚陸艇)が含まれていた。LCTは5輌の戦車が搭載され第1海兵戦車大隊のM4シャーマン戦車30輌を迅速に揚陸する役目であった。LCTに暗礁の縁まで運ばれた戦車はLVTの誘導により浅瀬を自力で上陸した。
- 突撃第5波のLVTには重機関銃、迫撃砲が積まれ前進指揮班が乗り込む。
- 突撃第7波から第28波までは舟艇(LCVP/LCM)やDUKW水陸両用トラックで、残存部隊の兵員・装備・物資を輸送する。舟艇は暗礁を越えられないので、海岸からの距離は1800m程の暗礁の辺りに移送ラインが設定され、ここで海岸から引き返してきたLVTに兵員・装備を積み替え、上陸を繰り返していた。
11:55 南波止場 両陛下ご休憩処と昼食
12:45 飛行場 95式軽戦車(飛行場誘導路) 日本軍飛行場(1937年に建設開始、1941年完成)
- 飛行場(昭和12年建設開始、昭和16年完成)
- 米軍対戦車砲で擱座した95式軽戦車
第1号反撃命令
- 昭和19年9月15日午後、「反撃決死斬込隊ハ、戦車隊全力ヲアゲ、コレト協同シ、飛行場北側ヨリ旧アヤメ陣地方向ニ対シ反撃シ、敵ヲ撃滅スベシ」。
- 午後4時30分、第14師団戦車隊(天野国臣大尉)の95式軽戦車17輌は市岡大隊(第2聯隊・第1大隊)の一部の決死隊を戦車に跨乗させ全速力で滑走路を南進した。
95式軽戦車の諸元
エンジン:三菱A6120VDe 空冷直列6気筒デイーゼル
乗員:3名(車長 操縦手 機関銃手)
全長:4.30m 車体長:4.30m 全幅:2.07m 全高:2.28m 重量:7.4t
速度:40km/h(最大) 行動距離:240km主砲:94式37o戦車砲(120発)
副武装:97式7.7mm車載重機関銃×2(車体前部・砲塔後部 3000発)
装甲:砲塔外周12mm、車体前面上・下部12mm 車体前面傾斜部9mm
13:00 海軍航空隊司令部庁舎、同発電施設跡 日本司令部跡(1922年に帝国海軍司令部として創立)
- 司令部・防空壕入口
- 防空壕の鉄扉
13:30 零戦残骸
- 右翼に残る日の丸
- 操縦席内部
13:40 南地区 高崎歩兵第15聯隊・第3大隊(千明=ちぎら)大隊本部
- 銃眼外側の上下に動く厚い防護鉄板
- 内 部
南地区隊 750名
隊長:歩兵第15聯隊第3大隊長・千明 武久大尉、
第7中隊長:奥住栄一中尉、第8中隊長:小林保中尉、第9中隊長:小野理謄中尉、砲兵第3中隊長:岩佐直三郎中尉、作業小隊長:阿部 伍作少尉、野砲1門、47粍速射砲1門、37粍速射砲1門、高射機関砲1門
師団から命令された戦闘指導要領(任務)
南地区隊はペリリュー飛行場南側に堅固なる拠点を占領し、飛行場を直接防衛するとともに、来襲する敵を水際に撃滅せよ。敵もし飛行場に進入した場合は、西地区と協同、これを反撃殲滅する。状況直ちに止むを得ない場合に於いても、飛行場の南側地区を確保し、敵の飛行場利用を拒止し、かつ地区隊逆襲の拠点とする。特に海軍地上部隊と密に連繋するものとする。小島に砲1門を、中崎附近に山砲1門を配備し、西海岸及び東海岸を側防する。また1部をもって飛行場を火制し得る如く準備せよ。
@大隊本部:ペリリュー島飛行場南部中央
@配置(南半島一帯) 西浜の中央、西地区のクロマツ陣地の南にあるアヤメ陣地、米軍オレンジ2海岸正面、米軍オレンジ3海岸、その南のレンゲ陣地、無名島
37粍速射砲
大隊本部付近に置かれている。
- 2011年5月
- 2014年9月
- 2018年3月
徐々に風化が進んで、いずれは朽ち果てると思われる
14:00 西太平洋戦没の碑(ペリリュー平和記念公園)1
26年前厚生省が建立、我将兵が飲料水に大変苦労され米軍と戦われた事を偲び屋根の雨水が溜まるように設計されている。
慰霊される両陛下
- アンガウル島を望まれ両陛下
- 両陛下のお立ち台から見るアンガウル島
14:20 戦争博物館(旧帝国海軍の倉庫 1920年建立)
日米両軍の小火器・弾薬・装備や米軍の降伏勧告ビラ・当時の写真展示。
- 終戦直後の写真
- 千人針と銃剣
- 祝壮行 萩原正?君(東京出身)
- 祝 陳阿六君 特設農業団
15:00 ペリリュー島(北波止場)着
- 飯田大隊逆上陸地
- カドブス島(零戦飛行場)を望む
- 昭和19年9月23日午前5時20分、前日午後10時パラオ本島・アルミズア゙桟橋を出発した村堀利榮中尉率いる逆上陸先遣隊は爆撃で戦死傷14名を出すが153名がペリリュー島北端のガルコル波止場上陸に成功、
午前11時20分パラオ地区集団命令・照作命甲117号発令
- ペリリュー島への先遣増援部隊は、本23日5時20分無事ペリリュー島に到着し、同地区隊長の指揮下に入れり。ペリリュー島2qの地点において敵に発見され、熾烈な砲撃を受けるも、我損害は軽微なり。
- 歩兵15聯隊長は今23日、日没以降なるべく速やかに飯田大隊主力をもってパラオ本島コロール地区を出発せしめ、ペリリュー地区に増援すべし。
- 9月23日午後8時30分、歩兵第15聯隊・第2大隊長飯田義榮少佐率いる800名がパラオ本島からペリリュー島へ舟艇輸送で逆上陸決行の為出発。
- 9月24払暁、百数十名の戦死と輸送隊長の金子啓一中尉以下7人が戦死するも飯田少佐が上陸に成功、飯田少佐が掌握した兵力は先遣隊を含め約400名。
海中50qの飯田少佐の逆上陸作戦報告書
福井聯隊長(歩兵第15聯隊)宛ての戦訓と意見具申をつづった報告書をパラオ本島に送るため、奈良四郎少尉以下17名の決死隊を編成、奈良少尉以外は沖縄県糸満出身の水練の達人でパラオ地区で召集された兵士。
昭和19年10月01日 出発前の奈良少尉の指示。
「我々は、パラオの司令部に無電では送れない重要な報告を持って行くのだ。よいな、この重大な命令は、陛下の命令である。なお我々がパラオに届ける報告書は、大本営作戦部で最も必要とする一億国民の期待する報告書でもある。諸君がすでに目撃しているとおり、我々の行く手には、何百もの敵艦船が、我々をパラオに渡してはならないと待っているのだ。昼も夜も敵は猛然と我々に襲いかかるであろう。もし我々に武運が無ければ、この内の半数は敵弾に倒される。しかし我々は運を天に任せ全力を尽くし、しかる後天命を待つのだ。よいな。諸君の武運を祈る。各自俺につづいて出発」
奈良少尉のパラオ本島までの海中伝令コース(10月1日〜4日)
- ペリリュー島からガドブス島 600m
- ガドブス島からコンガウル島 300m
- コンガウル島からガラカヨ島 3q
敵グラマン機の銃爆撃によりガラカヨ島に辿りついたのは奈良少尉以下5名。 - ガラカヨ島から三っ子島 7.5km
- 三っ子島から鯨島 1.3km
最も潮流の激しい難所。 - 鯨島からマラカル島 3km
- マラカル島からウルクターブル島 10km
ヨオ水道を出てガムドコ水道に向かう*ペリリュー島を脱出してきた海軍の折り畳み式の大発動舟艇に遭遇、奈良少尉が同乗を依頼すると某中佐は「これは海軍の舟艇だ。もう1名でも乗せるとこの大発は故障してしまう。陸軍の将校を1名助けるために60名の海軍の兵を危険にさらすことは出来ない。気の毒だが君は泳ぎたまえ!」と返答。自分達さえ助かれば良いと思う薄情な連中で、命令も任務も無視して、ペリリュー島の戦場から負傷者の護送を口実に密かに脱出してきた連中であった。
*数日後、この海軍脱出者達はパラオ海軍司令部の命令により、ペリリュー島斬り込み隊(某中佐以下60名)として同じ海をペリリュー島にむかった。
- ウルクターブル島からコロール島 13km
ペリリュー島からパラオ本島まで珊瑚礁を潜りぬけたりしたので優に60kmを超える長距離を連続48時間の力泳、4日間を費やしパラオ本島に無事到着したのは17名中4名であった。