HOME ‖ 歴史パノラマ探訪
ツアー名 | アメリカ歴史的都市とニューヨーク9日間 |
---|---|
ツアー日程 | 2017年6月10日(土)〜6月18日(日) 9日間 |
ゲチスバーグ・ワシントンD.C・ニューヨーク
09:15 ゲチスバーグ国立ミリタリー公園着
09:20〜09:40 マックファーソン(Mcpherson)リッジ
09:50〜10:15 セミナリー・リッジ
南軍陣地跡
- ピケット突撃(ピケット・チャージ)が行われた草原
1863年7月3日午後3時、砲撃終了と共に南軍歩兵12,500人が1,200m前方の北軍陣地に「ピケットの突撃(ピケット・チャージ)」と云われる突撃した戦場跡。
10:20 リー将軍像
- 北軍陣地セメタリー・リッジを望むリー将軍騎馬像
10:30〜10:55 リトル・ラウンジ・トップ
北軍騎兵が南軍歩兵に突撃した岩山
南軍は手薄になったリトル・ラウンド・トップ陣地の丘の森と草原で展開された南軍の攻撃は激烈を極め、4時間に亘る熾烈な攻防戦がゲチスバーグの戦いの中で最も激しい戦いであった。
11:00〜11:30 昼食 Mason Dixon
ゲチスバーグの地質から出る良質の水で酒造りをする工場の一角にあるレストラン。
ゲチスバーグの戦い(1863年7月1日〜3日) 北軍勝利
南北戦争の事実上の決戦で、北軍(アメリカ合衆国軍)と南軍(アメリカ連合国)双方が総力を結集、南北戦争最大の激戦となり、劣勢の北軍が優勢に転換した戦い。
北軍 | 南軍 |
---|---|
ジョージ・ミード少将 ウインフィールド・スコット・ハンコック少将 第1軍団(ジョン・F・レイノルズ少将) (アブナー・ダブルデイ少将) 第11軍団(オリバー・O・ハワード少将) ダニエル・シックルズ少将 ヒュー・シャドソン・キルパトリック准将 騎兵:ジョン・ビュフォード少将 デイビッド・グレッグ准将 ジョージ・アームストロング・カスター准将 エロン・J・ファンズワース准将 |
ロバート・E・リー将軍(大将) リチャード・ユーエル中将 ジェムウ・ロングストリート中将 ジョージ・エドワード・ピケット少将 騎兵:ウエイド・ハンプトン(3世)中将 J・E・Bスチュアート少将 |
戦 力: | 北軍: | 93,921名 |
南軍: | 71,699名 | |
損 害: | 北軍: | 23,051名 戦死3,155名 負傷;14,531名 捕虜・行方不明5,365名 |
南軍: | 23,231名 戦死4,708名 負傷:12,693名 捕虜・行方不明5,830名 |
<地理的背景>
- ゲチスバーグは鉄道や主要道路が集まる交差点で、当時の米国にとり重要な地点で当地を確保出来れば戦争を有利に進める事が出来る。
- 北軍・南軍双方はゲチスバーグの地理的重要性は理解していたが、両軍が積極的に部隊を展開しなかったのは、ここに進軍すれば必然的に大規模衝突が起こる為。
<背 景>
- チャンセラーズヴィルの戦い(1863.4.30〜5.6)が南軍勝利で終了したので、リー将軍は北軍の継戦意欲を失わせる為、北部(ボルチィモアやフィラデルフィア)への更なる攻撃を企図。
- チャンセラーズヴィルの戦いで北軍が敗れたので、リンカーは指揮系統の改善の為司令官をジョセフ・フッカーからジョージ・ミードに変更。
<戦闘経過>
- @序盤戦
6月初旬より小競り合いが起き、6月3日最初の戦闘が起きるとリー将軍は北軍勢力下のゲチスバーグ市内を偵察する為、直ちに騎兵を派遣し町の北西部丘陵の尾根に配置。6月中は本格的戦闘は起きなかったが、地理的背景から頻繁に衝突が起き両軍は部隊を集結。 - @1日目
- 7月1日南軍歩兵の射撃が、北軍4個騎兵大隊と南軍2個歩兵旅団の大規模な戦闘に発展。部隊終結が不完全な北軍は、援軍到着まで兵力優勢な南軍歩兵の前進阻止に傾注、北軍は騎兵の応戦により南軍歩兵の進撃をくい止めたものの劣勢であった。
- 両軍はゲチスバーグの地理を生かし大規模部隊を派遣、午後南軍総司令官リー将軍も到着。北軍・第1軍団(ジョン・F・レイノルズ少将)と第11軍団(オリバー・O・ハワード少将)の部隊が徐々に到着し防衛線に加入したが、この時点のゲチスバーグの北と西の尾根の攻防戦では南軍が優勢で、北軍第1軍団長・ジョン・F・レイノルズ少将は南軍の砲撃により戦死。北軍団指揮をアブナー・ダブルデイ少将が引き継いだが防衛線を支えきれず、ゲチスバーグ市内から撤退。
- 北軍・ミード少将から一時的に現場責任者として先にゲチスバーグに派遣されたインフィールド・スコット・ハンコック少将は、防衛戦闘に優れる指揮官で、ゲチスバーグの南丘陵に陣地を構築、更にセミターリー・ヒル〜セメタリー・リッジ〜ラウンド・トップ〜リトル・ラウンド・トップの防衛線を築き守備隊を配置。 これにより数キロにも及ぶ味方との連絡や部隊の増援が容易になり、戦闘を有利にはこべるようになった北軍は、不利な情勢を徐々に盛り返し均衡を保つ事に成功。
- 南軍リー将軍は、北軍の陣地構築終了前に攻撃すべきと判断、配下のリチャード・ユーエル中将に「もし君がそれを合理的だと思うならば、丘の上にいる北軍を攻撃すべきだと思うが、残りの部隊が到着するまで大規模な戦闘は避けるように」という曖昧な命令を出した。 この為、自軍(南軍)の損害を過大評価したリチャード・ユーエル中将はこの日の攻撃を中止した。
- 夜戦場に到着した北軍司令官ミード少将は戦況把握、ウインフィールド・スコット・ハンコック少将構築の陣地を主体に防衛戦を続行することに決めた。
- @2日目
- 昨夜攻撃を中止し、早朝攻撃を再開する予定の南軍は準備に手間取り攻撃態勢が整ったのは午後4時で、この遅延は北軍有利に結びつくはずであったが、何故か理由も無く北軍ダニエル・シックルズ少将はセメタリーリッジ以南の守備隊の配置を変更、最前線に移動させた為、リトル・ラウンド・トップ陣地が手薄になった。
- 南軍は手薄になったリトル・ラウンド・トップ陣地の丘の攻撃を開始し、北軍の戦況はまたもや不利に陥るが、偶然リトル・ラウンド・トップ陣地にいた通信兵が戦況を報告。
- 報告を受けて戦況を把握した騎兵のジョン・ビュフォード少将は、南軍の行動を確認、リトル・ラウンド・トップ陣地が敵に渡れば自軍(北軍)の不利が決定的になると判断、可能な限りの部隊(4個連隊)をかき集め陣地に移動させた。
- 陣地付近の森と草原で展開された南軍の攻撃は激烈を極め、4時間に亘る熾烈なリトル・ラウンド・トップ陣地攻防戦がゲチスバーグの戦いの中で最も激しい戦いであった。
- 北軍ミード少将は自軍兵力が劣勢にあるものの、南軍が北軍陣地突破の為に攻撃先を変更する度に的確に兵を移動する巧みな戦闘指揮を行った。
- @3日目
- リー将軍は、1日・2日目と同じ「北軍の継戦意欲を失わせる為の攻撃」の構想の下にジェムウ・ロングストリート中将に北軍左翼、リチャード・ユーエル中将にカルプスヒルの北軍を攻撃する作戦を立案。ジェムウ・ロングストリート中将の部隊が攻撃準備完了前に、前日の失地奪還を意図する北軍第12軍団が砲撃が開始、これに対し南軍はカルプスヒルへの第2次攻撃を実施し、一進一退の状況が続く。
- リー将軍は作戦構想を変更、ジェムウ・ロングストリート中将指揮下の第1軍団所属のジョージ・エドワード・ピケット少将のバージニア師団に軍団から抽出した6個旅団を加え、セミタリーリッジの北軍左翼中央部の第2軍団を攻撃する事に決め、北軍前線に対し攻撃支援射撃を決定した。
- 午後1時、170門の南軍砲兵は南北戦争最大規模の砲撃を開始。
当初北軍砲兵は砲撃後の南軍歩兵の突撃に備える事及び弾薬節約の為、対抗射撃を行わなかった。南軍は更に約80門を加えて砲撃を実施したものの弾薬不足で北軍に大損害を与えられなかった。 - 午後3時、砲撃終了と共に南軍歩兵12,500人は1,200m前方の北軍陣地に「ピケットの突撃(ピケット・チャージ)」と云われる突撃を開始。
北軍第2軍団の激しい砲撃と銃撃により突撃した南軍兵の過半数は戦死又は負傷したものの南軍の勢いは収まらず北軍前線は一時的に動揺、防御用の低い石壁も部分的に南軍に突破されたが、北軍の防衛ラインへの兵力増強が成功し、最終的に南軍突撃(攻撃)は撃退された。
<その他、2か所の激し騎兵戦>
- @ 南軍・J・E・Bスチュアート少将の騎兵隊は自軍左翼の防御と歩兵戦の戦果拡大及び北軍補給線遮断の為、北軍右翼を迂回、ゲチスバーグの東5qに進出、ここで北軍騎兵2個旅団と衝突。両軍は互いにサーベルを交わす白兵戦を演じ、南軍のウエイド・ハンプトン(3世)中将指揮の旅団に対する北軍騎兵1個旅団(ジュージ・アームストロング・カスター准将指揮)の突撃は南軍の攻撃を鈍らせ、北軍背後を脅かすと云うJ・E・Bスチュアート少将の作戦目的を阻止する事に成功した。
- @ ピケットの突撃後北軍ジョージ・ミード少将はヒュー・シャドソン・キルパトリック准将に対し、ビッグラウンドトップ南西の南軍・ジェムウ・ロングストリート中将の軍団の歩兵陣地への騎兵攻撃を命令。ヒュー・シャドソン・キルパトリック准将麾下のエロン・J・ファンズワース准将はこの行動の無謀さを指摘し抗議したものの、命令に従い騎兵の突撃を敢行、ファンズワース准将の旅団は大損害を出し、ファンズワース准将は戦死。
<リンカーンのゲチスバーグ演説 Gettysburg Address>
ゲチスバーグ国立戦没者墓地の奉献式でリンカーン大統領が行ったわずか2分程の短い演説は、米国の存続の為に戦い落命した人々の栄誉を誇らかに称えた米国史上最も重要な演説の1つでる。
87年前、我々の父祖たちは、自由の精神に育まれ、人は皆平等に創られていると云う信条に支えらえた新しい国家を、この大陸尾に誕生させた。
今我々は、一大内戦のさなかにあり、戦うことにより、自由の精神を育み、自由の心情にささげられたこの国家が、或いは、この様なあらゆる国家が、長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである。
我々は、その様な戦争に一大激戦の地で相会している。
我々は、この国家が生き永らえるようにと、ここで生命を捧げた人々の最後の安息の場所として、この戦場の一部をささげる為にやって来た。
我々がそうすることは、誠に適切であり好ましい事である。
しかし、更に大きな意味で、我々は、この土地をささげる事は出来ない。
清めささげる事も出来ない。 聖別する事も出来ない。
足す事も引く事も出来ない、我々の貧弱な力を遥かに超越し、生き残った者、戦死した者とを問わず、ここで闘った勇敢な人々が既に、この土地を清めささげているからである。
世界は、我々がここで述べる事に、さして注意を払わず、長く記憶に留める事もないだろう。
しかし、彼等がここで成した事を決して忘れ去る事は出来ない。
ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きている我々なのである。
我々の目の前に残された偉大な事業にここで身をささげるべきは、むしろ我々自身なのである。
それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を尽くして身命をささげた偉大な大義にたいして、彼等の後を受け継いで、我々が一層の献身を決意する事であり、これらの戦死者の死を決して無駄にしない為に、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせる為に、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させない為に、我々がここで固く決意する事である。
15:00 ユニオン駅(ワシントンD.C.)
- 首都ワシントンD.C.の玄関口。
- 1908年、現在駅舎完成
- AMTRAK、メリーランド通勤鉄道(MARC)、バージニア急行鉄道(VRE)の通勤鉄道が乗り入れ、駅構内にAMTRAK本社がある。
- 駅舎外観(玄関)
- 中央コンコース
- AMTRAK乗り場
16:02 ワシントン発 178列車
車内は冷房が強いので、乗車前に参加者に伝達。
- 優先乗車する為、ポーターにスーツケースの運搬を依頼。
- TS四元さんからCue International保坂さんへ、車両連絡。
- AMTRAK発車後、車掌が座席確認。
確認後荷物棚に確認カード(行き先・人数)を差し込んでいた。
- 荷物室(前方
- 車内風景
19:25 ニューヨーク(グランド・セントラル駅)着
1871年10月旧施設完成、1904年駅舎の第2次改装開始、1913年2月1日にグランド・セントラル・ターミナルとして開業。古典主義風のボザール(アメリカン ボザール)様式の建築物で、床面は大理石、天井には星座が描かれている。
- ガイドの保坂 理恵さん
20:00 Grand Hyatt NY 着
地域全体のガス管工事の為、20時から翌8時までシャワーの湯が出なかった。
20:15 夕食 Grand Central Oyster Bar
ホテルチェックイン後、荷物を部屋に入れロビーに集合。
- イカのリング揚げサラダ
- ロブスター