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ツアー名 | アメリカ歴史的都市とニューヨーク9日間 |
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ツアー日程 | 2017年6月10日(土)〜6月18日(日) 9日間 |
羽田・ミネアポリス・アトランタ
16:20 羽田空港発 DL120 B777機 搭乗率98%
13:30(中部時間) ミネアポリス着
17:16 ミネアポリス発 DL1679 MD90 満席。
20:20(東部時間) アトランタ着。
21:00 W Atlanta Buckhead ホテル着
アトランタ
- W Atlanta Buckhead
- ツアーカウンター
- ホテルカウンター
@ホテル建築デザイナーの落ち着いた雰囲気を醸し出すとの意向でロビー全体が薄暗い。
@ホテル出発 ガイド:小木曽 里美さん
11:35〜11:40 スワンハウス(アトランタ歴史協会)
12:20〜12:40 マーガレット・ミッチェルハウス
13:50〜14:45 歴史センター(含む昼食)
15:00 W Atlanta Buckhead ホテル着
アトランタ「風と共に去りぬ」テーマツアー
11:35 ストーンマウンテン公園着。
- 約3億年前にマグマ活動で出てきた火成岩が冷えた世界最大の花崗岩。面積236ha 高さ252m。
- 幅58mの斜面に掘られた南部同盟の英雄レリーフ 左から
*ジェファーソン・デービス南部軍総司令官(アメリカ連合国大統領) 1808年6月3日〜1889年12月6日
*ロバート・E・リー将軍(アメリカ連合国陸軍大将) 1807年1月19日〜1870年10月12日
*トーマス・J・ジャクソン将軍(ストーンウォール・ジャクシン)(アメリカ連合国陸軍少将) リー将軍の右腕
1824年1月21日〜1863年5月10日(戦死)
- ロバート・E・リー将軍
- トーマス・J・ジャクソン将軍
14:05〜14:45 マナー ハウス(ディッキーハウス)
- 建築主:チャールズ ミルトン デイビス
- 建 築:1845年〜1850年
- 屋敷は1961年ジョージア州に譲渡されるまで、代々ディビス家の子孫が居住していた。
- 屋敷は大きく4つに解体され、1963年4月現在地で復元、一般公開されている。
- 屋敷の木工材は全て手作業によりもので、床の煉瓦や円形の柱や庭園の壁も全て手造りによるもの。
<奴隷小屋の外観と内部>
16:30〜17:00 タラ(風と共に去りぬ)博物館
「なぜこの町は、ジョージア州の他の都市とこんなにも違うのだろう? なぜこんなに早く発展したのだろう?
そこには別に取り立てて威張れるものは、何も無いではなか。
只鉄道があり、気が強くて、出しゃばり好きな人間が住んでいるだけではないか」
(マーガレット・ミッチェル著「風と共に去りぬ」より)
- 宝塚歌劇団ポスター
明日になれば
作詞:植田 紳爾 作曲:寺田 瀧雄
悲しみは明日にしよう 涙をこらえ泣くのはよそう
人の世に別れはあれど この世には明日がある
夜が来れば朝は近い 冬が来れば春は近い
明日になれば 明日になれば
月は沈み日は昇る
アトランタの戦い(1864年7月22日〜8月31日) 北軍勝利
北軍指揮官:ウイリアム・シャーマン少将、ジェイムズ・マクファーソン少将
南軍指揮官:ジョン・ベル・フッド中将
戦 力:北軍 ミシシッピ地区軍 南軍:テネシー軍
損 害:北軍 3,641名 南軍: 8,499名
北軍 | 南軍 |
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ユリシーズ・グラント中将 ウイリアム・シャーマン ジェイムズ・マクファーソン少将(テンシー軍) 15A:ジョン・A・ローガン少将 16A:グレンビル・M・ドッジ少将 17A:フランク・p・ブレア・ジュニア少将 ジョージ・ヘンリー・トーマス少将 ジョン・マカリスタ・スコフィールド少将 (オハイオ軍) |
ジョセフ・ジョンストン将軍 ジョン・ベル・フッド中将 A:ウイリアム・J・ハーデイ中将 A:ベンジャミン・チーザム少将 A:レオニダス・ボーク中将 ウイリアム・W・ローリング少将 騎兵軍団:ジョセフ・ウイラー少将 騎兵隊:ジョセフ・ホラー少将 |
<背景>
- アトランタ方面作戦指揮官・ウイリアム・シャーマン少将が、ジェイムズ・マクファーソン少将指揮の北軍主力3個軍団を指揮。
- アトランタの戦いの数か月前、南軍のジュセフ・ジョンストン将軍は北軍のシャーマン軍に対してテンシー州チャタヌガーからジョージア州マリエッタまでの鉄道沿いで同じ行動、ジョンストンが防御的配置を採るとシャーマンは、南軍防禦陣の側面に回り、ジョンストンが後退するといった行動を繰り返し、南軍は1864年7月17日ジュセフ・ジョンストン将軍を解任し、ジョン・ベル・フッド中将を指揮官に任命した。
- ジョン・ベル・フッド中将の主任務は、南部同盟の重要な鉄道拠点で産業の中心地アトランタの防衛であった。自軍兵力が巨大な北軍のシャーマン軍に比べ少ない為、フッド中将は敵を市内に引き込む作戦を計画した。
<戦闘 その1>
- 北軍マクファーソン軍はアトランタ東側に接近。
- 南軍フッド中将は、1個軍団に北軍の左翼に回り込ませ、南軍の騎兵隊をシャーマン軍の補給線近くに進ませ、1個軍団に北軍正面を攻撃させた。
- 北軍マクファーソン少将は、自軍の左翼に対する脅威を想定し、予備軍団を左翼に送りを強化させた。
- 北軍の左翼に回り込んだ南軍1個軍団と北軍予備軍団が遭遇してアトランタの戦闘が開始された。
- 南軍の初めの攻撃は撃退されたが、北軍左翼も後退、北軍指揮官のマクファーソン少将は、馬で戦闘視察中に南軍の歩兵に打たれ戦死。
- この時点の南軍主力前線はL字体形で、1個軍団がL字の底辺横棒、北軍正面攻撃の1個軍団はL字の縦で、北軍を取り囲む有利な体形であった。
- L字横棒の南軍1個軍団の攻撃は、北軍が前線を保持した為立ち往生、L字の縦の南軍1軍団は北軍の前線を突破したが、シャーマンが作戦本部近くの砲20門で南軍に集中砲撃を浴びせた為、南軍は撃退された。
北軍損害:3,641名 南軍損害:8,500名
<戦闘 その2>
- 北軍は(シャーマン)はアトランタ市を包囲し、市内を砲撃すると同時に市の西と南から補給線を遮断。
- 8月31日 北軍がジョーンズバラでメーコンからくる鉄道線路を占領、南軍をラブジョイ駅方向に押し込んだ。
- 南軍は翌日アトランタから撤兵する為、夜中に補給庫を爆破、アトランタは火に包れた。この火事は1939年の映画「風と共に去りぬ」に描かれた。
- 9月2日アトランタ市長が北軍に降伏を申し入れ、シャーマンはワシントンに電報「アトランタは我々のものであり、完全な勝利」と打電。
<戦後>
9月7日北軍はアトランタ市内に作戦本部を設置、市民全員をアトランタから退去させ、アトランタの全建物を焼却した。
現在アトランタ戦場跡は居住地と商業地になっていて、戦闘史を伝える表示は僅かに残されているに過ぎない。2004年に戦闘140周年を記念して、インマン公園に2つの標識が立てられた。